こんにちは、さくさくです。
GW10連休に静岡に行きました。
世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」の一部である韮山反射炉を見に行ったら、今まで自分が思っていたより遥かに凄いものでした。
プロジェクトXばりの無から有を作るストーリーが聞けるボランティアガイドは必聴です。
駐車場から見る韮山反射炉(左)と茶畑(右)。春と秋は、茶摘み娘の衣装を着て茶摘み体験ができます。
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世界文化遺産 明治日本の産業革命遺産とは
韮山反射炉は平成27(2015)年7月、世界文化遺産に登録されました。
世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業」は、8エリア、23資産で構成されていて、韮山反射炉はその構成資産の一つです。
明治日本の産業革命遺産の価値
・23の構成資産全体で「顕著な普遍的価値」を有している
※普遍的価値とは、国家間の境界を超越し、人類全体にとって現代及び将来の世代に共通した重要性を持つような、傑出した文化的な意義
・遺産群として、19世紀半ばから20世紀初頭にかけて重工業(製鉄・製鋼、造船、石炭)分野において急速に産業化した道程を時系列に沿って証言している
とされています。
明治日本の産業革命遺産の時系列
1850年代 試行錯誤の実験 西洋の技術書や西洋船の模倣に基づく封建諸侯や幕府による試行錯誤の実験(韮山反射炉はこの段階)
↓
西洋技術の直接的導入 西洋技術と外国人技術者の直接的導入
↓
1910年 産業化の完成 国内で育成された専門知識と西洋技術の積極的な導入と適応による産業化の完成
23の構成資産が↑の時系列の中で、製鉄・製鋼、造船、石炭の3分野に属しています。
なので明治日本の産業革命遺産は、萩城下町など江戸時代のものから、一番最後に建設された遠賀川水源地ポンプ室は日露戦争後の1910年(明治43年)と時代に幅があるんですね。
韮山反射炉
私が韮山反射炉を知ったのは、小学生か中学生の頃の社会科の教科書だったように思います。
白黒の写真と「静岡県の韮山にある反射炉で鉄を作ってました」というざっくりした記述だった気がします。
なので私はずっと
・鉄ね~
・でも何で静岡の中途半端(失礼!)なところでこんなことやってたんだろう
くらいに思ってました。
韮山反射炉が作られた理由
韮山反射炉が竣工したのは1857年。
1853年のペリー来航を受けて、江戸の海防体制を強化することが必要でした。
そこで、蘭学に通じた韮山代官江川太郎左衛門英龍(ひでたつ)を責任者として、反射炉と品川台場の築造が決定されたということです。
韮山反射炉は江戸幕府直轄の反射炉なのです。
反射炉という名前
実は、今回韮山反射炉を見に行って説明を聞くまで「反射炉って、太陽光を反射させて集めた熱で鉄を作ってる」と勝手に思ってました(恥)。
違います。
反射炉の天井はパラボラアンテナのような放物線を描くカーブになっているそうです。
その天井で、石炭などの燃料から発生した熱や炎を反射させて一点に集中するから反射炉だそうです。
こうして鉄の融点、千数百度という高温を実現したそうです。
反射炉の耐火れんが作りから
韮山反射炉築造には、技術者の指導はありませんでした。
蘭学の書物の知識だけで、江川英龍が総指揮を取って取り組みました。
反射炉に使う耐火れんがも、各地から土を取り寄せて、職人が試作を重ねたそうです。
千数百度という高温に耐える耐火れんがの土は、意外にも近くの天城山中(現河津町)で見つかったとか。
反射炉の基礎、松杭
韮山反射炉って、目に見える部分が全部のように思ってました。
しかし、この巨大な反射炉が長年(2019年時点で162年)持ちこたえてきたのは、しっかりした基礎があるからです。
反射炉の下の地面には、松杭が打たれているそうです。
松杭は、広島県宮島の厳島神社の基礎としても使用されています。
江戸期頃からはお城の基礎としても使われとても丈夫で長持ちするもののようです。
このしっかりした基礎工事によって安政の大地震(1854年)でも、築造中の反射炉に損壊はありませんでした。
関東大震災(大正12・1923年)、北伊豆地震(昭和5・1930年)等では被害を受けましたが、保存修理、耐震補強を重ねてその姿を保ち続けています。
幕末のプロジェクトX
このように、当時の最先端技術が結集した反射炉は江川英龍一人で作ったわけではありません。
・高温に耐えうる耐火れんがを開発する職人
・松杭の基礎打ちをする職人
・れんがを積んだ煙突を漆喰で塗り固める職人
このように各分野のスペリャリストが集められて、反射炉の建設にあたったそうです。
江川英龍は蘭書で学んだことを現実の形にする、反射炉築造のプロジェクトリーダーという立場だったのです。
書物の情報だけで反射炉を作ることには大変な苦労があったようです。
江川英龍は建設途中に世を去り、跡を継いだ息子の江川秀敏によって1857年韮山反射炉が完成しました。
韮山反射炉が2基ある理由
これは反射炉を反対側から見た写真です。
角度をつけて2基並んでいます。
大砲を作るのに2基必要だった
この韮山反射炉が作られた理由は大砲を作るため。
大砲の鋳型に鉄を流し込むのに、この反射炉1基で作る量では足りませんでした。
そのため2基同時に稼働して、反射炉裏側に据えた鋳型に鉄を流し込んでいたそうです。
韮山反射炉は大砲製造工場
韮山反射炉の敷地には、今残る反射炉本体だけでなく大砲製造のための様々な施設があったようです。
鉄を鋳型に流し込んで大砲の原型を作った後は、河川の水で水車を回して砲身をくり抜く施設もありました。
現代の私達が目にする反射炉だけでなく、当時の最先端産業システムが形成されていたのです。
韮山反射炉の変遷
韮山反射炉といえば、三角形の組み合わされた模様の外観が印象的です。
これは昭和32年の修理で設置された補強用の鉄骨トラスです(トラスは昭和63年に更新)。
韮山反射炉の完成当時、外観は漆喰で塗り固められて真っ白だったようです。
完成から120門以上の大砲を作り(正確な数は不明)明治維新後は荒れ果てていました。
日露戦争戦勝記念
韮山反射炉が初めて本格的に修理されたのは明治41(1908)年。
日露戦争の賠償金が原資だったため、満州から持ち帰ったロシア軍の銃剣で塀が作られたそうです。
鉄骨トラスで補強
昭和32(1957)年、煙突の補強で鉄骨トラスを設置して現在のような外観になりました。
この鉄骨トラスは昭和63(1988)年に差し替えて更新されています。
※トラスとは、部材同士を三角形につなぎ合わせた構造形式のことです。
展望デッキも必見
韮山反射炉を見学した後は、向かいの茶畑の上にある展望デッキから絶景を楽しむことができます。
雰囲気のある竹林の横から階段を上っていきます。
竹林をよく見ると、竹の子が頭を出しているのも見つけられました。
2つの世界遺産が一緒に見える
展望デッキからの眺めはこんな感じです。
左手に反射炉、そして雲のない日には遠く富士山と二つの世界遺産が一望できるそうです。
私が行った日は、晴天でしたが雲が多くて富士山が全く見えませんでした。
残念です。
2つの世界遺産想像図(笑)
上の残念な写真に富士山を描き足してみました(笑)。
条件が良いと、こんな絶景が楽しめるそうです。
次に韮山反射炉に来る時には、茶摘み娘体験とこの絶景を楽しみにしたいと思います。
富士山見えなくて残念だったね
だから気合で描いてみたよ
韮山反射炉ガイダンスセンター(韮山反射炉)
住所:〒410-2113静岡県伊豆の国市中260-1
電話:055-949-3450
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